私達クリスチャンには、信仰と行いが必要である。神が生きておられるなら、私達の信仰も生きていなければならない。では死んだ信仰とは何か。聖書には「信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」とある。
信仰と行いには密接な関係がある。ルカ10:30〜37に「よきサマリヤ人」の話がある。けが人を見捨てた祭司、レビ人達は、信仰はあるが、死んだ信仰者として描かれている。
行いというのは、ある意味で経験を通して訓練されて身について行くものである。そのためには行いを想定した信仰生活を普段からしなければならない。
伝道においても行いと言うものが重要である。使徒16:29〜33の「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」のみことばの後、パウロは看守の家族に福音を語っている。伝道には、みことばの約束を信じる事と、実際に福音を語る事の両方が必要である。
クリスチャンのよい行いとは、周りへの影響力の事である。たとえ体が不自由でも周りに影響を与える事が出来る。それも行いである。影響力とは自己主張ではない。キリストのかおりを放つ事も影響力である。
自分の自我が小さくなるほど、キリストのかおりが漂って来る。行いとは、決してがんばりではない。がんばりは逆に肉的になる。
礼拝においても行いが必要である。礼拝とは受け身ではなく、私達のからだを捧げるものである。(ローマ12:1) その意味で、本当の礼拝とは行いが伴っていると言える。
神様が生きておられるなら、私達の信仰も生きていなければならない。みことばは、そのための行いを強調している。私達も、神様に喜ばれる、行いを伴った、生きた信仰を持たせて頂こう。