柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「完全に結ぶ愛」コロサイ3章12-15節

これは、パウロからコロサイにいるクリスチャンに宛てて書かれた手紙です。コロサイは、小アジアの内陸にある非常に栄えた町でした。ユダヤ人も多く住み、またギリシャ人もいました。文化的にはギリシャの影響がかなり強くあったようです。その影響があり、間違った教えも教会に影響を与えました。異端の問題があったのです。当時、ギリシャ哲学の善悪二元論が影響し、罪深い人間は神と交わることができない、だからキリストを造りキリストが世界を創造したと、全くの偽りの教えが教会を揺るがそうとしました。
しかし、パウロはこの手紙を送って、キリストは初めからおられ、万物の創造者であり、教会の頭であることをはっきりと示したのです(1;15-18)。そして、教会はまさにそのキリストによって召された者の集まりなのです。


1,神から与えられているもの

聖書によれば、全てのものは神によって造られたと言われています。しかしそれは自動的に私たちが救われることを意味しているのではありません。私たちには自由意志があります。アダムとエバもそうでした。神に従うこともできるし、従わないこともできたのです。私たちも同じです。信じるか信じないか、私たちは自分の意志で判断できるのです。
しかし、私たちは弱い者です。自分の力で、完全に行うことはできません。人間とは頼る者です。何を頼りにするかが大切です。キリストを頼りとすることが見いだせるのは幸いです。万物の創造者であり、弱い私たちを助けて下さる方です。すべて重荷を負っている者は私のもとに来なさいといつもキリストは招いて下さいます。そして、私たちの重荷を解決して下さるのです(マタイ11:28)。
しかも、キリストが私たちを選んで下さり、聖なるもの者愛される者として下さるのです。ここに出てくる聖とは、清いという意味ですが、それ以上に神のものであると言う意味があります。神様は私たちを大事にし、離さない、敵の手から取り戻して下さるのです。そして、神の愛は絶対に愛して止まない、たえず惜しみなく愛するという積極的な愛です。
その神の愛に私たちは生かされるのです。
さらには、ここに五つの身につけるべきものがあります。深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を私たちに神様は与えて下さっているのです。神を信じるものはその五つのものを心に着けるのです。神の恵みに覆われるのです


2,互いに赦し合う

13節には、忍びあうこと、赦し合うことが語られています。不満を抱くことがあってもとありますが、おそらくはコロサイの教会の中に不満はあったでしょう。私たちは、文化や風習、考え方の相違によって意見が異なります。何でも自分の思い通りに行くとは限りません。むしろ、気の合わないことや、神経を使うこともあるかもしれません。他の人がすることに対して、もっと別の方法がある、自分だったらこうするのにと不満を持つことがあるのです。そのことに関して、「互いに赦しあいなさい」とここで勧められています。そのために必要なことは、人間お互いだけのことではありません。まず、私たちのために主イエス・キリストが赦して下さったのです。十字架の上で血を流し、いのちを捨てて私たちの罪の責任を負って下さったのです。それが、赦すと言うことです。私たちも責任のなすり合いをするのではなく、イエス様が十字架でいのちを捨てて赦して下さったように、互いに赦しあうことです。


3,愛によって結ばれる

様々な良い着物を身につけても、最後に着けなければならないものがあります。それは、帯です。神様は私たちに、愛の帯を与えて下さっておられます。それは、十字架の愛です。犠牲の愛です。イエス様は私たちに手本を見せて下さいました。最後の晩餐のとき、自らが手ぬぐいを取って弟子たちの足を洗い、拭いて下さったのです。しもべとしてその手本を見せて下さいました。私たちも、その愛を身につけるべきです。それがなければ、いくら謙遜や柔和、寛容があっても愛がなければ、ばらばらになるのです。私たちに必要なものは、キリストの十字架の愛なのです。十字架によって結ばれることです。
その結果、どうなるでしょうか。キリストの平安が私たちの心を治めるのです。平安に心が満たされるのです。そして、私たちは神をほめたたえ、感謝をささげることができます。私たちは常にキリストの豊かな恵みを着させていただき、愛の帯を締めて生活するものとさせていただきましょう。


          (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)