柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「もし人生をやり直せるなら」2コリント5章14-21節

特別伝道礼拝

                  講師:村上宣道牧師
       (坂戸キリスト教会協力牧師、太平洋放送協会名誉会長
        ラジオ「世の光」、テレビ「ライフライン」の伝道者)


『もし、人生をやり直せるなら』
                    2コリント5章14-21節

ある方が、若い時に、自分自身の人生に愛想をつかし、絶望して、旅館で「12時に死にます」と遺書を書いた。書き終わると、ホッとして寝込んでしまいました。目を覚ますと、時計は、まだ12時20分前でした。よく見ると、針が動いていません。「時計がこわれれば時計屋で直してもらえばいい。ラジオなら電気屋で・・・。と、造っているところへ持って行けば直るんだ」と気がついたのです。「私もどこかへ持って行けば直してもらえるかも知れない」と自殺を思いとどまったのです。その方は人間を造られた方は誰だろうと、寺や神社や本に探し求めました。その時、ふと教会が目に止まり、入って牧師に「人間は、人生をやり直すことができるのでしょうか」と問いました。「あなたをつくりかえることのできるお方は、あなたを創造され、全世界を創造され、あなたの罪の身代わりとして十字架に架かられ、死んでよみがえってくださった、まことの唯一の神しかない」と答えられたのです。『また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです』(15節)この方は、「求めてみよう」と決心し、やがて牧師になりました。
今日の聖書のことば、17節『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました』とありますが、
『新しい』はギリシャ語では、『ネオス』と『カイネー』があります。『ネオス』は、長く続かないで一時的に新しいこと、『カイネー』は、いつも新しさがキープされている、日々「新しい」の意味があります。ここでいう『新しい』は後者の意味です。
では、何が新しくなるのか、どういうことが新しくなったことなのでしょうか。
21節『神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです』
何が新しくなったのでしょうか。その人の立場が逆転する。罪びとが罪のない者として、神の前に立たせていただく方法として、罪のないお方が、罪びとの身代わりとして十字架に架かっていただくことでした。
どんな善行や慈善事業をしても、神の前にあなたの罪は消えることはありません。キリストを抜きにしては断じてないのです。神が、私たちを義とするためにとって下さった方法は『キリストを信じる』ことです。そうすれば、もう過去は問わない。新しい人生が始まるのです。
二つ目は、神との和解が成立しました。つまり、神との関係が変わったということです。
18節『これらのことはすべて、神から出ているのです。神はキリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。』19節『すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばをわたしたちにゆだねられたのです』と。
イエス・キリストは、人々から嫌われていた取税人のザアカイに「おまえを見捨ててはいないよ」と声をかけられました。おまえの『違反行為』をこれ以上責めない、「おまえの払うべき代価を済ませたよ」と言われています。
20節に『こういうわけで、私たちは、キリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい』とあります。
神様が、(『懇願して』)頭を下げるがごとくに、手を伸ばして、あなたを引き上げようとして下さっているのです。「あなたの罪の全部を、わたしが担ったよ」と言われる方を信じ、受け入れるとき、新しい人生が始まるのです。
三つ目のことは、生きる目的が新しくなる。いつも自分中心に生きてきた人生はやめた「この方のために生きる」と生きる目的が変わります。15節に『また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです』とあります。
四つ目のことは、16節『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません』「かつては」人間関係や人を見る目や自分の考えに固執して、狭い、ギクシャクしたものであったが、「今は」生きる標準が新しくなったのです。自分が変わると周りが変わる。今までの自分とは違う、価値観、人生観が変わり、何を第一にしていくべきかがはっきりしてきます。17節『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました』。
『桃栗三年柿八年』とありますが、柿は実るまで八年かかります。八年もかかったからさぞかし甘い実がなるだろうと思いますが、渋い実しかならないこともあります。柿は、切られて、接木するまでは、甘い柿はなりません。私たちも、十字架の上で、傷つかれたイエス・キリストに接木しなければ、新しくなることはできないのです。
今、戸惑っておられる方もイエス・キリストは「わたしに任せないのか」と問われています。すべてをお任せして、キリストと合体して、新しい人生を始めてまいりましょう。