柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「小さな信仰大きな祝福」ヨハネ6章5-13節

この所に、イエス・キリストが5,000人以上の人たちの空腹を満たされた奇跡が記されています。この奇跡は私たちに何を語っているでしょうか。


1,人間の限界

エス様は弟子のピリポに5,000人以上もの人たちにどのようにして食べさせるか尋ねられました。なぜイエス様は彼に質問をされたのか、それには意図がありました。イエス様はピリポの信仰を試されたのです(2節)。彼は「200デナリのパンでも足りません」と応えました。200デナリとはおよそ200万円くらいでしょうか。彼は現実的に物事を考える人でした。最後の晩餐の席でも「私たちに父なる神様を見せて下さい。そうすれば満足します」(ヨハネ14:8)と言っています。
おそらく人間の常識で考えるなら5,000人以上の人に食べ物を与えることは不可能です。他の弟子は分散して帰すことも言っています(マタイ14:15)。それが、私たちの限界ではないでしょうか。


2,主に委ねる

その時、弟子のアンデレが小さな男の子を連れて来ました。その少年は、おそらく自分の弁当であろう大麦のパン5つと小さな魚2匹を持っていました。それ自体、何らたいした物ではありません。アンデレも「それが何になるでしょう」と言っているくらいです。
ところがイエス様は「それをわたしのところにもって来なさい」と言われたのです。そして、おそらくこの少年は素直にイエス様に渡したことでしょう。それが、信仰のキーポイントになるところです。これくらいのものは役に立たない。と言って、もし渡さなかったら奇跡は起こらなかったでしょう。
案外小さい子どもは自分のものを他の人に渡すことはしません。自分の持っているおもちゃを他の子どもに貸すことはありません。自分の持ち物に対しては、所有欲の強いものです。しかし、この子どもは素直にイエス様に渡しました。それが奇跡をもたらしたのです。私たちも、自分の持っているもの、たとえそれが役に立ちそうにも思えないものでもたとえ小さな、わずかなものであったとしても、神様の手にお任せするなら、大きな奇跡を起こすものとなるのです。


3,神の祝福

エス様はその小さなパンをどうされたでしょうか。11節を見ますと、それを手に取られ感謝をささげられたとあります。天の父に向かって感謝の祈りをされたのです。そして、それを座っている人々に分かち与えられました。
なんと、そこにすわっている5,000人以上の人々の空腹を満たされたのです。それどころか、余ったものをあつめると12のカゴが一杯になったのです。小さなものでも、神様の手に委ね祝福されると、飢えているものが満たされ、なおあまりあるものが与えられるのです。
この奇跡が起こったのは過越の祭りのときでした。それにも意味があると思います。最後の晩餐のときにイエス様はパンをちぎって弟子たちに与えられました。そして、イエス様はご自分がいのちのパンであると弟子たちに語られたときがありました。それは、象徴的な意味と言うだけでなく、私たちを実際に満たされる方はイエス・キリスト御自身であることを教えられます。
私たちは、食べるものだけで満足できません。でも、私たちの心を満たすものがあります。それは愛です。イエス様は弟子たちを愛されました。どんなに裏切られても、また見捨てられてもご自分の弟子たちを愛されたのです。それは、私たちにも同じです。イエス様は、私たちを見捨てられません。心の飢え渇いた状態で帰されません。詩篇23編2節にあるように、私たちを青草の上に座らせ緑の牧場で養って下さるのです。
私たちの信仰はたとえ小さくても、それを素直にイエス様の手にお委ねするとき、イエス様は父なる神様に執り成しの祈りをして下さり、それを幾倍にも増やして下さり祝福して下さるのです。私たちはその事を信じて、主の手にお献げし、委ねるものでありたいと思います。


               (宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)