柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神に望をおく」 第1テモテ6章11-17節

この手紙はパウロから、若い弟子のテモテに宛てて書かれた手紙です。神の恵みとあわれみそして平安が豊かに与えられるようにと祈りを込めて書かれた手紙です。(?テモテ1:2)そしてこの個人に宛てて書かれた手紙が、公の聖書の書巻の一つとなったのです。それだけに大切な、私たちの毎日の生活に必要なことが書き記されています。


1,この世の富みに望をおかない

17節にはまさに6章を要約した言葉です。第一にこの世の富みに望をおかないことです。それほど、この世のものは当てにはなりません。私たちを究極的に絶対的に助けるものではありません。確かにあれば便利です。お金を出せばだいたい自分の欲しいものが買えます。手に入れることができるのです。
アメリカのある新聞社が、お金についての定義を募集したことがあったそうです。そこで選ばれたのが「お金は、天国以外のどこへでも行くことができ、幸せ以外の何物でも買うことができる」と言うのが一位になったそうです。
言うなれば、カネがあればこの世のすべてのものが手に入る。金がすべてだと言うことではないでしょうか。それがこの世の多くの人が考えていることであると思います。しかしまた、金で買うことのできないものがあります。それは、永遠のいのちであり、たましいの平安と喜びです。それはお金では手に入りません。
むしろ、金銭は私たちに取って誘惑となり、大きな落とし穴となることがあります。それは10節にも「金銭欲」に対する戒めの言葉があります。金銭それ自体は良くも悪くもありません。使う人の心によって大きく変わります。慈善事業や困っている人の為にも使うことができますし、その反対に悪いことにもお金は使われてしまいます。最近でも大相撲関係者の野球賭博が大きな問題となっています。これもまた、「金を追いもとめたために…、非常な苦痛をもって自分を刺し通した」ことの現れではないかと思います。私たちも気を付けなければなりません。
それでは、金銭を追い求めないで、私たちの求めるもの希望となるのは何でしょうか。


2,神に望をおく

それは、17節にあるように、「すべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望をおく」ことなのです。金は私たちに、永遠のいのちもたましいの喜びや平安を与えてはくれませんが、真の神様はそれらの物を豊かに与えて下さる方です。
11節を見ますと、六つの物を熱心に追い求めよとあります。それらのものは、人間的な戒律を守るとか修行するようなものとはちがいます。私たちの生まれつきの性質では、それらのものがすばらしいとはわかっても完全に自分の力では得られないものです。
しかしそれを目標にして私たちは生活の中で努力することができます。自分は正しくありたい、人を愛し柔和で忍耐をもって生きたいと望みます。しかし、自分の力や意志・努力でできない事がわかります。それはまさに12節で言われているところの「信仰の戦い」です。私たちの心に葛藤が起こり、自分は正しくない、愛がない、忍耐がないとの否定的な思いがわき出てき、自分を支配しようとします。
ところが私たちには勝利の方程式があります。まず私たちが得る結論は、永遠のいのちを得ることを目標にすることです。金銭でもなければ、この世での権力や名声ではありません。「永遠のいのち」を得ることを目標とすることです。そして、それは私たちが自分の努力で勝ち取るものではなく、13節にあるように神が与えて下さるものです。
神が私たちに与えて下さる良きものとは、金が儲かるとか、自分の思い通りになるといったものではありません。イスラエルの王であったソロモンは、この世のありとあらゆる名声権力富を得ました。そして彼のその豊かさの結論は「空の空、いっさいは空である」という心の空しさであったのです。

しかし、神は私たちに永遠のいのちを与えて下さいます。それは死なないお方であり、真の主権者です。「天においても地においてもいっさいの権威が与えられている」お方なのです(マタイ28:18)。ポンテオ・ピラトの前でさばきを受け、その中にも自らを神の子であることを証しし、ピラトでさえも罪を見いだせないと言われたキリストが、私たちの罪を背負い十字架に身代わりとなって死んで下さいました。彼は死の中からよみがえられて私たちに永遠のいのちを約束して下さったのです。この方に望をおき、豊かな恵にあずかり喜びと楽しみのある人生を得させていただきたいと思います。

             (宣教者 柏原教会牧師  西本耕一)