柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「空しさから喜びへ」ヨハネ4章10-14節

梅雨が明けて、夏の暑い日が続きます。しかしこの暑さも植物の生育には必要なものです。そして神様はこの厳しい暑さをも乗り越える力を私たちに与えて下さいます。
重要なことは、私たちの心が満たされることではないでしょうか。ここには空しい人生を過ごしていた一人の女性が、喜びに輝く生き方にかわったことが記されています。


1,救いのために

エス様は、ユダヤの地からガリラヤへ向かわれました。イエス・キリストの来られた目的は、人を救うためです。永遠の滅びから、救うために来られたそれ以外のなにものでもありません。有名になりたいとか、人から尊敬されるためではなかったのです。
そして、サマリヤに来られました。普通ユダヤ人は、サマリヤの地に行きませんでした。サマリヤ人とは仲違いしていたからです。元々は同じ民族でした。しかし、旧約の時代、アッシリアに占領され、異邦人が移住し、雑婚が起こったのです。それ故、ユダヤ人はサマリヤ人を見下し、互いに反目するものとなったのです。
しかし、イエス様はそのような状況の中にあっても、滅び行く魂のために、わざわざサマリヤを通って行かれました。そこに神の愛があります。愛がなければ、行かれないのです。そして、もう一つ大事なことは、へりくだり、キリストの謙遜です。サマリヤの女の人に、ユダヤ人の男が頼むことは決してあり得ないことでした。しかし、イエス様は、その人を救うために、自らが話しかけ、しかも、水を飲ませて下さいと頼まれたのです。イエス様は、私たちと同じ人間になられて、私たちと同じように、飢えることも渇くことも身をもって知って下さるお方です。
ですから、私たちは、そのイエス様に近づくことができます。サマリヤの女が近づいたように、私たちも身近に近づくことができるのです。そして何よりも、渇くことがないように、生ける水をキリストに求めることが出来ます。


2,生ける水―聖霊

水を求めたイエス様は、その女の人に、生ける水を与えることを語られました。不思議なことです。そして、イエス様は不思議にも水を飲んでおられません。それが目的ではなかったのです。イエス様の目的は、この人生に渇いた女の人を満たすために、永遠の滅びから救うために来られたのです。
確かに彼女は水を求めて井戸に来ました。水がなければ生きていけません。生活できません。水は必要なものです。しかし、さらに大切なのは、私たちを本当に生かす、生ける水―永遠のいのちへの水が必要なのです。それがなければ、私たちの魂は渇き、死んでしまうのです。その生ける水を与えることができるのは、救い主キリストであり、神ご自身なのです。
その水を得させるために、イエス様は一つのことを言われました。夫を呼んできなさいと、それは彼女の神様に対する罪でした。離婚を5回繰り返し、同棲しているのです。彼女は、空しい、渇いた人生を歩んでいたのです。結婚すれば満たされる、相手は自分のことを愛してくれる。しかし、その水を飲む者はまた、渇くのです。この世の物や人は、私たちの心を満たしてはくれません。また、渇くのです。
神が与えて下さるいのちの水すなわち、聖霊を受けなければ私たちの魂は永遠に満たされないのです。聖霊を受けるために、イエス様は罪を指摘されました。5回離婚したこと、それは過去の罪です。そして夫でないものと同棲している、現在の罪です。その罪を繰り返す限り、満たされることはない、空しい人生を過ごしてそして、ついには滅んでいくのです。
話題は、水から礼拝に変わりました。魂にとっては、水より神を礼拝することです。魂を満たすのは、水ではなく霊であり、聖霊です。その話になったのです。彼女は救い主を求めていました。そして、イエス・キリストにお目にかかったのです。何と彼女は、水瓶を置いて、町に行き、人々に証ししました。彼女は変えられました。空しい人生から、人目を避けて暑さの中を水汲なければならない苦しみの人生から解放され、人を恐れない、大胆にイエス・キリストを語るものとなったのです。それは、使徒2章と同じです。彼女も又、生ける水―聖霊を受けて喜びに満ちあふれ、大胆にキリストを証して、サマリヤ人の多くの人はイエス様を信じて救われたのです。
私たちも、生ける水―聖霊を内にいただいて喜びに溢れ、イエス様の救いを大胆に語らせていただきましょう。


(宣教者: 柏原教会牧師  西本耕一)