柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「神の試み」 ヨブ記 23章 1∼12節

 私たちはこの世において、様々な試練や苦しみを受けることがあります。聖書を見るならば、それは無意味なことではないことがわかります。

 ここにヨブという人が出てきます。彼ほど試練を受けた人は他にはないと思います。
神様は彼に対して目的を持っていました。「私は試されると、金のようになって出てくる。」神様は試練を通して、私たちを純粋で高価な輝いた者にしてくださるのです。そのために試練を与えられることをみことばを通して学んでいきたいと思います。


1,ヨブの嘆き
 

 彼は自分の苦難を見て見舞いに来てくれた友人に訴えています。「今日もまた、私の嘆きは激しく、自分のうめきのゆえに私の手は重い。」彼は1章1節をみると「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」人でした。そんな人がなんと大きな試練に遭ったのです。一夜にして10人の子どもが死に、彼の持っていた財産は奪われ、ついには彼自身も重い病にかかったのです。奥さんは「神を呪って死になさい。」と言うくらいのひどい状況でした。

しかし彼は神様を呪わず、ひたすら信じて待ち望んだのです。よく言われるのがヨブの忍耐です。彼ほど忍耐強く神様を待ち望んだ人はいないでしょう。
それでも彼は友人に自分の状態を嘆き、そして苦しみに遭っていることを率直に語っているのです。

ですから、私たちも自分の弱さまた、苦しみを隠す必要はありません。
ヨブほどの誠実な人が試みに合うとしたら、なおさら不真実で愚かでだめな人間である私たちも、試練に遭わないわけはありません。私たちを、練りきよめて、金のようにする。神様は約束されているのです。

 

2,神を求める
 

 彼の素晴らしさは何だったのか。それは彼には信仰があったと言うことです。全財産を失い、跡継ぎの子どもたちも失い、重い病気になった彼にも一つだけ素晴らしいものがありました。信仰です。
神様に自分の苦しみを訴え、そして慰めを人にではなく、神様に求めたのです。
 
 3節「どこで神様に会えるかを知って、その御座にまで行きたい」4節「自分の言い分を並べて、訴えたい」5節「むしろ私に心を留めてくださる」と言っているのです。
神様に対する信頼がなければ、これらの言葉は出てこないでしょう。それほど彼は「神様を信頼しすべてをお任せする。」と、委ねていたのです。

 私たちには今、私たちの嘆きや悲しみを受け入れ聞いて下さるイエス・キリストがおられます。「思案せずに何事をもイエスに話せよ」と新聖歌200番にあるように、すべての重荷をイエス様に委ねましょう。

 

3,神に従う
 

 彼は確かに、嘆き悲しみ憂いを訴えました。しかし彼の心の中身は何だったでしょうか。彼の心は12節「自分の定めよりも神の口のことばを蓄えた」私たちは自分自身で決心します。しかし彼はそれ以上に、神のことばを重んじたのです。「私は神の唇の命令から離れず」苦しみの中にあっても、神様の言われることを信じて従っていったのです。ですから彼は「私は試されると金のようになって出てくる」と信じていたのです。
彼は最期には、持ち物が2倍となり、以前にまさる者となりました。彼だけではありません。多くのクリスチャンが試みに合うけれども、それにまさる祝福に与り豊かになっているのです。

 Ⅰペテロ1:7「あなたがたの信仰は…金よりも高価であり、…イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」と約束されているのです。この世のものにまさる、神の栄誉祝福に与らせていただきましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

 

「人を赦す」 エペソ人への手紙 4章32節

 ウクライナの戦争が始まって1年近くなります。今も悲惨な状況をニュースで聞きます。もしこの世が愛で満ち、人を赦す心が豊かであるなら戦争はおろか人との争いもなくなるのではないでしょうか。この世が暗くなり乱れているのも愛と赦しにかけているのが原因ではないでしょうか。

 聖書に「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい」と言っていますが、本当に赦すとはどういうことか考えてみたいと思います。

 

1,受け入れる

 一つには相手をありのまま、愛をもって受け入れることです。ルカの 15章に放蕩息子の話があります。父親に背き、財産を湯水の如く使い果たし、変わり果てた姿を持って帰ってきた息子を父親は走りより抱きしめ受け入れたのです。

 

 確かにその息子は天に対しても父親に対しても罪を犯しました。赦してくださいとお詫びしたのですが、実は父親はもっと前から赦していたのです。財産を持って飛び出す前から息子を愛していました。愛があるからこそ、息子のわがままを赦したのです。そして愛があるからこそ、傷つき汚い身なりをして帰ってきた息子を受け入れたのです。息子が父親を見つける前から、父親は息子を探していました。ですから遠くから帰ってきた息子を最初に見つけたのは父親だったのです。そして傷ついた息子を見ると駆け寄り抱きしめ口づけしたのです。そして死んでいたのに生き返ったと大喜びで彼を迎え入れみんなでお祝いしたのです。

 

 神様はそのように、失敗し、自分はだめだ、愛される資格はないという私たちを受け入れてくださいます。汚いままで私たちを抱きしめ、そして良く帰ってきたと喜んでくださるのです。キリストは「すべて重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」と弱っている私たちを抱きしめ受け入れてくださるのです。

 

2,罪を忘れる

 

 そして、赦すということは、相手の悪、悪いことを忘れると言うことです。もう、もはや二度と思いださないのです。

 

 ある人は、「心の罪で悩みました。それは、自分の信頼している友達が、自分のことを他の人に悪く言ったのです。しかも、自分を信用してくれている親しい人にまで、告げ口をして悪く言いふらしたそうです。そのことでもって、その友達とは口をきかなくなりました。別に暴力を振るうとか、人にその友達の悪口を言うとかなにもしなかったのです。ただ心の中に悪口を言いふらされた、屈辱、憎しみが心にありました。自分の心は傷ついた、痛みがあったのです。長いこと赦すことはできませんでした。表面的には穏やかで何もないように見えていて、振る舞っていたのですが、心の傷は癒やされなかったのです。

 

 ところが、ふとしたきっかけで教会に行くようになり、キリストのことを知るようになりました。今日のみことばにあるように「神は、キリストにおいてあなた方を赦してくださった」この「赦してくださった」とはどんな意味があるんだろうか。興味が出たのです。あるときイザヤ書の言葉が目にとまりました。「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」罪が消えてなくなるんだろうか。そんな思いを持ってあるとき新約聖書を見ると「御子イエスの血すべての罪より我らをきよめる」とのみことばがあり、自分の心の罪をイエス様は十字架にかかり、血を流して自分の心を清めてくださった。赦してくださった。そう信じたとき、心の中の裏切られた思い、憎しみ、悔しさ、悲しみすべての罪がキリストの十字架で、血潮で洗い清められた、もうもはや思い出さない。全部過去のことは忘れた。赦すことができた。」と証しされました。キリストは私たちを受け入れてくださいます。赦してくださいます。どんな過ち、罪も十字架で赦されます。

 

 その愛をいただいて、私たちも人を赦し受け入れ愛するものとさせていただきましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「主と共に生き抜く」 創世記 5章21∼24節

 新たな年を迎えるにあたり、創世記のエノクという人物に注目したいと思います。彼は神とともに生きた人でした。

 

Ⅰ.この時代の中で生きる


 エノクの時代はどの様な時代だったでしょうか。文明は発達しつつも、その中に罪の力が働き、人は人の命を奪い、互いに命を与え会うのではなく、守るために警戒し合うようになります(創 4章 1-16節)。

 文明は悪いものではありません。ただし一方でどれ程、便利であっても、変わらず重要なこともあります。この時代に対抗するかのように、ある人々は「主の名を呼ぶ」ことを始めます(創 4章 26節)。

 便利な時代の中にあっても、主の名を呼ぶことに意義があります。この時代の中に立って、エノクは祈ったのではないでしょうか。


Ⅱ.神とともに生き抜く


 エノクは最後神に取られて、いなくなります(創 5章 24節)。おそらく、最後までエノクが神と親しく生きた生き様を、人々は記憶していたのでしょう。

 人の最後は計画も、選ぶことも難しいものです。これまで何を築いてきたか以上に、むしろ矛盾の多い「私の人生」を神が受け入れて下さっている事実に、頼り続けられることこそ、幸いではないでしょうか。

 そのような神と共に生き抜く姿こそ、尊く輝いているのだと思うのです。

 

(宣教者:羽曳野教会 加藤 満牧師)

「イエス・キリストの力」 使徒の働き 3章1~10節

 神様はイスラエルの民を選び、奴隷とされていたエジプトから脱出させ、カナンの地に導かれ、与えられた。 イスラエルの民は今もカナンの地に生きている。 聖書に書かれていることは、造り話ではなく、実話である。聖書の神は物凄い方です。

 この神様を味方にするなら物凄い恵みがある。しかし、この神様を敵に回すと恐ろしい事になります。どうしたら 、神様の味方にして頂けるのでしょうか?


1、神様は物凄い方であるが、私たちを愛して、御子イエス様を十字架にかけて殺し、私たちを救って下さる方です。

 神様は私たちを愛して御子イエス・キリストを人として生まれさせて下さいました。
ところが、その一番大切なイエス様 は 十字架で殺されて死んでしまった。
なぜ、助けなかったのでしょうか?
「もしイエス様を助けたら、イエス様は素晴らしい王様になっていたかもしれない。」
しかし21世紀の今、生きる私たちとは何の関係もない、2000年前に生きていた偉人で終わりです。

 神の御子は罪の全くない方だからこそ、私たちの私の、罪の身代わりになって下さり、私が罰を受ける代わりに、十字架という物凄い罰を代わりに受けて、死んで下さった。

 

2、十字架に架かられ、死なれましたが、復活、よみがえられたのです。

①ペテロとヨハネ ※自分の情けなさに泣いた

ゲッセマネの園でイエス様が 捕らえられた 後、2人はずっと一緒にいた。
・2人は、 ゲッセマネの園からイエス様 の後を離れた所から着いて行った
・大祭司の庭 に入れたのは、裕福な家の息子ヨハネがそこによく出入りしていたから
・焚火に当たりながら、様子を見ていた。
「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」の言葉に
「違う」「弟子ではない」と裏切ったペテロ、
・それを 聞いていて、黙って、助けないで見ていたヨハネ福音書に詳しく書く)


ペテロ
・・・強く立派・イエス様の一番弟子 ―――大祭司の庭での大失敗
      ――泣くもう人間やめたい。深刻です。
そうしなかったのは・・・ イエス様が「立ち直ったら、皆を励ましてくれ」と言われたから

クリスチャンとそうでない人の違い。・・・・イエス様の復活にある!


・復活の朝、墓まで2人一緒に走って行った。40日の間復活の主に赦された。
 復活の主は: 知ってる、分かってるよ
情けない自分に自信のない心、これから、どうしていったら良いのか分からないペテロの心、
ヨハネの心・・・

もう一度、自分の命、将来、握っているもの全部イエス様にお献げした――約束の聖霊降臨


ペンテコステ聖霊が与えられた。

聖霊降臨の日イエス・キリストを信じる者が3000人程与えられて、
 洗礼を受けた。
2章46節:今まで通り、神殿に行って礼拝していた。
おとなしいユダヤ教の一派とみなされ、あまり、影響力がない。
ほっといても、支障が無い


ここからは違う!
:午後3時ごろ運ばれてきた、生まれつき足の不自由な人、
         (足が悪くて、社会保障もない時代、神殿で大勢の人が集まっている
         所で、物乞いをする以外に方法はない。)


・ペテロとヨハネはイエス様に遣わされ、イエス様の名による力を頂いて、
 出かけていって人を癒した経験がある。→しかしイエス様はもういない。
・私のうちにある。いて下さる方 ----イエス様の代わりに来られた、
 聖霊なる神様がおられる。

②金銀はない:お金だけではない。力も自負心も熱心さや信仰深さもない

③ 私にあるものがある:
    心の内に主がおられる:聖霊なる神様が心の中におられる。
              イエス様そっくり・同じご聖霊

 

3、私たちも信じ従うなら、形は違うかも知れないが、ご聖霊により、今も生きておられる主を現すことができる。

3:12・・・自分の力や信仰深さによって、奇跡が起きたのではない。
3:16・・・イエスの名 :イエス様が この人を癒した。


① 今2023年、 2000年たった私たちの状況はペテロの時と同じ。
 目に見えてイエス様は ここにおられない。


②ご聖霊が信じる者の心に「ある」「住んで」下さる。


③イエス・キリストの名により祈る=応えられる、みことばが励ます、
 聖霊の励ましがある。

 

結論・まとめ
  :主イエス様の大きな力 ・・・ 私たちを救う力。私たちのうちに住んで下さる力
   私たちが主イエス様を心のうちに頂いている事を信じるなら、
   主イエス様を現す者になれる

 

(宣教者:柏原教会 副牧師 西本秀子)

「心に励ましを」 エペソ人への手紙 6章21∼24節

 この手紙はパウロが殉教する前、ローマの獄中で書かれました。宛先はエペソにいるクリスチャンです。エペソは偶像礼拝の盛んな町でした。土産物の商売で成り立っているような町でした。
そんな中にパウロイエス・キリストを伝え、信じる人たちが起こされたのです。そんな中でキリストを信じて行くことは大変だったと想像されます。


 日本も戦時中キリスト教は敵視されていました。羽鳥明牧師は旧制中学で軍事教練の将校がキリスト教を信じている者がいるかと問われたとき一人の級友が手をあげ、そのことに感銘を受けたのが救いのきっかけとなったと 聞きました。信仰が力となるのです。

 

1,忠実な奉仕者


 ここにティキコという人が出てきます。彼はパウロと同労の人でした。それだけでなく、非常に忠実でパウロから信頼された人でした。ですから、パウロはこの手紙を彼に託して、エペソの人たちに届けさせたのです。彼は単なる郵便配達屋ではありませんでした。獄中にいるパウロの様子を知らせ、かつエペソの人たちの様子を聞くいわば、意思疎通の重要なパイプ役であったのです。いわば通りよき管です。

 

 私たち自身も、キリストとまだキリストを知らない人たちの良い、そして忠実なパイプ役でありたいと思います。彼は手紙と共に、パウロが実際どのように生活しているのかを知らせたことであろうと思います。

 

2,心に励ましを与える

 

 彼は単なるパイプではなかったと思います。何の感情もない、無機質でただ事実を語るだけの者ではなかったと思います。 22節には「心に励ましを」とパウロは言っていますが、まさにティキコは、パウロが牢獄の中にあっても感謝に溢れ、エペソの人たちのために祈っている姿を伝えたのではないでしょうか。またパウロにもエペソの人たちが偶像礼拝の多い町で、如何に信仰に立って生活しているかをパウロに報 告したことでしょう。この事を通して、ティキコもエペソの人たちにそしてパウロに、励ましを与えることができたと思います。

 

 ですから、彼もまた神様に用いられた人です。パウロもそうですが、私達も神様の愛のパイプ役となることができるのです。 23節には「信仰に伴う、平安と愛」とありますが、伴うと訳されている言葉には、「後に」という意味があります。すなわち、愛は信仰の後からくる、平安は信じた後からくる、平安も愛も信仰に伴うのです。信仰によって引っ張られているのです。その信仰は、父なる神と主イエス・キリストからくるものです。キリストを信じることによって、心に平安がそして愛が与えられるのです。

 

 私は牢獄の人を見舞ったことはありませんが、重篤な病の中におられたクリスチャンをお見舞いしたことがあります。そこには希望がありました。永遠のいのちを与えられている、平安と神様に愛されている、その愛に生かされている感謝がありました。それこそ恵みであると思います。病の現実と共に愛によって生かされる現実、そして希望が与えられるのです。本当に信じることができて良かった。その思いが心の中に与えられるのです。私たちも死からよみがえられたキリストによって永遠のいのちが与えられ、心に希望と感謝を豊かに与えていただきたいと思います。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「わたしが一緒に行く」 出エジプト記 33章14節

 新年あけましておめでとうございます。2023年新しい年をまず礼拝をもって始めることができ感謝です。

 今日は、出エジプト 33:14から、メッセージを語らせていただきます。

 このことばは、主なる神様がモーセに語られたことばです。彼は神様によって選ばれ、イスラエルの指導者として建てられた人です。神様はエジプトの地で奴隷となっていたイスラエルの人たちの叫びを聞き、もう一度アブラハムに約束された地カナンに返されると言われました。ところがイスラエルの民は荒野の中で不安を覚え、偶像を作り不信仰に陥りました。その時モーセは山から下り、不信仰のイスラエルのために命がけで神様に祈ったのです。その時の答えが14節の「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」という約束でした。


1,神様がともに行かれる

 
 モーセは優れた指導者でした。また、神様の忠実なしもべでした。ところが何万人というイスラエルの民を導いて約束の地カナンに行くことは大変なことであったのです。しかも荒野で何もありません。また約束の地といってもどんなところかも解らない。ですから、途中で弱音を吐いて誰がこんな所に連れてきたのかと愚痴をこぼしたり、エジプトはよかった肉や美味しい野菜をたくさん食べられたと嘆くのも無理のないことであったと思われます。しかし、重要なことは彼らイスラエルの民は奴隷としてこき使われ、将来も希望もない状態であったのです。彼らは苦しみの中から、神様に叫び、救いを求めたのです。そして神様は、モーセを選び彼らをエジプトの地から解放されたのです。しかし旅をする荒野においてモーセ自身も民の反逆、不従順や不平、不満、不信仰に疲れ果ててしまったのです。ですから彼は改めて神様に誰が一緒に行ってくれるのか、祈りをもって問うたのです。


 その答えとして、神様は「わたしの臨在がともに行く」と応えられたのです。柏原教会は、旧会堂の講壇の上にこのみことばが掲げられていました。「我みずから汝と共に行くべし。汝をして安泰にならしめん。」と。私自身もこのみことばに励まされました。いまもそうです。この世の人生を歩むことは大変です。まさにイスラエルの民が荒野を旅するようなものです。困難や争いもあります。どこに平安を見つけることができるでしょうか。それは、神様が共におられることです。


 新約聖書では「インマヌエル―神我らと共にいます」ということであり、「わたしだ。恐れるな。」 (マタイ 14:27)ともがき溺れるような、私たちをも手をさしのべ引き上げてくださる方です。この主なる神様は私たちをも伴って、共に行ってくださる方なのです。


2,安息が与えられる


 そしてモーセ、私たちに対する約束は何か。「あなたを休ませる。」別のことばでは安息を与えるということです。休ませてもらえる。私たちには休息が必要です。特に科学技術が発達した現代でも、たましいの安息、心の平安が必要ではないでしょうか。ストレスがたまり、イライラすることもあると思います。しかし、度が過ぎてしまうとそれは暴力や犯罪になってしまうこともあります。真の神様は私たちに心の平安を与えられます。イエス・キリストは「わたしが与える平安は、この世が与えるものとはことなる」 (ヨハネ 14:27)と言われました。キリストの平安は、罪の赦しです。失敗や過ちが赦される。その赦しによって私たちの心に平安が与えられ、安らぐことができるのです。いくら休日を取って、遊びに出かけたり、ごちそうを食べたとしても、心に平安がなかったらどうでしょうか。心は安まるでしょうか。疲れがとれるでしょうか。


 キリストが与えられる平安は、この世が与えるものとはことなり、心の疲れが癒やされるのです。


 モーセは、神様が共に行ってくださる、これほど心強いことはない、平安を得ることができたのです。「あなたを休ませる。」神様は約束してくださいました。私たちもまた、この約束に与って、揺るぎない平安をいただき、この世の旅路を神様と共に歩ませていただきましょう。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)

「感謝から希望へ」 詩篇 103篇 1∼5節

 今日は12月25日クリスマスの日ですが、2022年最期の日曜日、締めくくりの礼拝となります。

 

1,神様に感謝をささげる

 1年を締めくくるに当たり、私たちが神様にできることはなんでしょうか。それは感謝をささげることではないでしょうか。

 この1年様々なことがありましたが、それでも神様は私たちを守ってくださり今日を迎えることができました。それだけでも大きな感謝ではないでしょうか。

 神様が私たちに最も喜ばれることはなんでしょうか。礼拝することです。大きな働きをすることでもなければ、立派なことを行うことでもなく、何よりも礼拝することを神様は求めておられます。パウロはローマ 12:1で「あなたがたのからだを神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそあなたがたにふさわしい礼拝です」と言いました。

 またイエス様も「父は霊と真をもって礼拝する者を求めておられる」(ヨハネ 4:23)と語られました。

 このところでも、ダビデは「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と神様をあがめ心から礼拝を献げている姿を見ることができます。

 

2,主が良くしてくださったことを忘れない。

 なぜ私たちは主をほめたたえるのでしょうか。それは主なる神様が私たちに良くしてくださったからです。

 ここに三つのことが出てきます。一つは「咎の赦し」です。この詩篇ダビデによると表題が付いています。ですから、ダビデが作ったと考えられます。彼は「咎」が赦されたことを感謝しています。彼をとがめたもの、彼は素晴らしい王様でしたが過ちを犯しました。バテシバとの姦淫の罪です。それを隠すために彼は、夫ウリヤを戦いの激戦地に送り殺してしまったのです。彼は罪を隠そうとしました。しかし神様は全てを知っておられたのです。預言者ナタンを遣わし、彼の罪を明らかにしました。彼はその罪を認め神の前にへりくだりお詫びをして赦されたのです。その罪のゆるしが、主の良くしてくださったことです。

 そして「すべての病 を癒やし」とありますが、彼が行ったことのもう一つの罪があります。歴代誌第一 21章に出てくる「人口調査」です。彼は高ぶりサタンの誘惑に合って兵士の数を数えました。それは高慢の罪であり、神様の嫌われることです。そのため、イスラエルの民は疫病に打たれて7万人が死にました。彼の犯した罪は大きなものであったのです。

 その時に、オルナンと言う人の打ち場で全焼のいけにえを献げ、赦されたのです。それは後に神殿が建てられるところとなりました。ですから、礼拝には神様に感謝をささげると共に、罪の赦しの意味もあるのです。4節に「 いのちを穴から贖われる」とありますが、死の滅びから救い出される。そのために代価が払われると言うことです。いのちの代価はキリストの十字架です。十字架によって罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのです。それだけではありません。一生を良いもので満ち足らせると約束されています。良きものとは、聖霊です (ルカ 11:13)。神様は私たちの心を絶えず恵みと憐れみをもって満たしてくださいます。

 

3,鷲のように新しくなる

 「あなたの若さは、鷲のように新しくなる」とあります。
鷲は何年かすると、羽が生え替わるそうです。雨風に打たれて羽も弱ってきます。しかし新しい羽が生えると揚力が増し、高く舞い上がることができるのです。
イザヤ41:31「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼を広げて上ることができる」と約束されています。私たちはさらに高く引き上げられ、喜びと希望に満ちた人生を歩むことができます。

 走っても衰えない、歩いても疲れない、生きる力を与えてくださるのです。

 

(宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)